日露修好150周年記念回航事業 【ルーシ号船上セミナー】

平成17(2005)年7月1日

杉坂 太郎

下田に関わる日露交流史

幕末、下田が開港場となっていた期間は、今から150年程前の1854年3月31日(嘉永7年3月3日)から1859年12月31日(安政6年12月8日)までの僅か「5年9ヶ月」です。(私は西暦と和暦を記していますが、参考までに露暦は西暦よりも12日前の日となります。)

その内1854年12月4日(嘉永7年10月15日)から1855年7月14日(安政2年6月1日)までの「7ヶ月半程」が、日露の通商開始と国境画定を目的として来日したロシア人の逗留期間です。それはヂアナ号が下田に入港し、日魯通好条約を締結し、フート号、戸田号に続いて、ロシアへ帰る最後の船グレタ号で戸田を出港するまでの期間です。

其の内の下田に関係する部分について話してみたいと思います。

1854年12月3日(嘉永7年10月14日)下田沖に停泊していたヂアナ号が下田に入港したのは、翌4日です。その16日後の20日、やっと受け入れ体制ができた日本側は、ロシア側との先手争いに勝って下田で最初の日露交歓を福泉寺で行ないました。長崎でのロシア側から将軍家への頂き物に対する返礼としての下され物があるということで。   

その20日(嘉永7年11月1日)の朝、副官ポシェート他1人が約束どおり午前9時頃上陸して休息所の了仙寺を検分して帰り、午後1時過ぎプチャーチン一行は弁天御普請所前(現ペリー提督上陸記念碑の辺り)に上陸し、了仙寺まで(=現ペリーロード)を儀仗兵の剣付き鉄砲の一隊等60人の先導として音楽隊が演奏していき、同寺で一休みの後、人数を減らして出発し、福泉寺には使節プチャーチン以下5人、軍服に剣を帯びて到着しました。一行は待受けていた紋付羽織、小袴、白足袋の日本側に出迎えられ、まずは将軍家からの下され物を受納し、その後、日本側応接係7人とロシア側3人が向かいあって、双方の異なる生活習慣どおり、積重ねた畳の上と椅子とに座り、まずは筒井肥前守と川路聖謨が長崎以来の挨拶をし、そして古賀謹一郎を除く初対面の4人、松本十郎兵衛、村垣淡路守、2人の下田奉行伊沢美作守、都筑駿河守を紹介し、その後5人は退席し、筒井、川路、ロシア使節プチャーチン、副官ポシェート、船将リソフスキーの5人で会食し、「翌日ヂアナ艦上で交歓」を約束して、下田で最初の交歓を無事終えました。

翌日の12月21日(嘉永7年11月2日)、威儀を正した幕府の御紋付朱塗りの大型押送船には、下田奉行2人を除く5人の応接掛と中村為哉、森山栄之助(通詞)が乗船しました。この船には紅白の天幕がかけられ、紫の幕が張られ、吹流し、四半(旗)、船手頭の船印が立てられ、舷には筒井肥前守以下各2本づつ槍が立てられました。この華やいだ本船の前には先発、先駆の船5艘、回りと後には随員船、護衛船、予備船等8艘、合計14艘の編隊が組まれました。それらが河口から下田湾に入り、ヂアナ号から見える位置にくると、ヂアナ艦上では歓迎の音楽が演奏され、帆柱には五色の旗が掲げられ、帆桁には大勢の水兵達が上って歓迎していました。

委員達一行はヂアナ艦内を案内され、船内の病院、潜水器、モジャイスキーの写生画等を熱心に見分し、甲板では調練を見学し、大砲、小銃等の武器にも触れることができ、和船とは異なるヂアナ号の大きさとその内容を知りました。そして饗応を、艦長室(主賓等)と別室(随員等)で受けました。その時の事を村垣は「酒ならびにめし肴追々に出す、其内音楽あり、〜あいそう至って宜し、無二の懇意の体、よく行届きたる扱い」と記しています。ところでこの食事のときの音楽、その前の歓迎の音楽、そして前日の下田上陸のとき行進していったときの音楽、それら3度の演奏曲目、楽器構成、人数等の記録がロシア側にありましたら教えてほしいと思います。それはともかく、「翌日の正午、福泉寺で日露交渉開始」を約束して、午後4時頃、みやげに菓子入りの小箱をもらってヂアナ号から帰るとき、日本側も水主たちが「お船歌」を歌いながら去っていったということです。

12月22日(嘉永7年11月3日)第1回日ロ交渉の日、プチャーチン、ポシェート、ゴシケヴィッチ、ペショウレフ一行4名は12時に上陸、了仙寺に少憩後、中村為弥に案内され福泉寺に入りました。日本側は筒井、川路、松本、村垣、古賀と下田奉行の都筑、伊沢の7名、来日の目的は通商開始、国境画定との説明、日本側は通商に対しては米国と同様の欠乏品供給を認めるとしました。また「開港場に露国役人を置く」に対しては拒否、「下田ではなく大阪あるいは兵庫を開港場に」に対しては、下田は古来有名な港で繋ぎ留めがたいとは認められないとしましたが、「露人の駐在、下田に代わる港、日米条約の写を提示」以上3件は次回、明後日12月24日(嘉永7年11月5日)朝9時からの会談で再検討することとし、第1回の交渉を終えました。

その次回会談の前日、12月23日(嘉永7年11月4日)は大変な日となりました。朝10時近く、後に言われる「安政の東海大地震大津波」が下田を襲い、船舶、家屋共壊滅状態となり、町は一面の平砂と化したということです。「津波だ!と聞くとすぐに町中に土煙が立ち、大荒波に人家が崩れ、大船が帆柱を立てながら飛ぶように田面へドッと〜」とも記されています。先日インドシナの津波をテレビで見ましたが、通りの狭い下田では、それよりも速く、文字通り飛ぶように町なかを大船が通ったと推測します。この時の下田での溺死者は122人(人口3851人)、875戸の内841戸が流失全壊、30戸が半壊、無事の家は高台にあったわずか4戸だけでした。

さて港内のヂアナ号はといいますと、渦潮にもてあそばれて30分間に42回転させられたと記しています。(この危険な状況下で冷静沈着に現状を見つめ計測しているロシア人に私は感嘆させられます。)古賀は「船が傾くと、5百人の乗組員が一致協力、大きな鉄棒で、岩をうけて突っ張り、ついにくつがえらない」と記しています。しかしソボレフは大砲により圧死しました。そしてそれに関して宇田川は「筒に敷倒され壱人即死のありしより、その危急なる場合にも日本人流れしを余程助けし其中に 老婆1人流れ来て碇の綱に取付を引上げ舟へのせけるに 最早性体(しょうたい)なかりしを温めいやし色々と介抱致し遣わすゆへ 命助かり、帰りけれハかたじけなしと其後は異船へ向かひ日々手を合わせてぞ、おがむよし、其の深切を聞くもの、皆々感服いたしけり」と記しています。つまりロシア人自体も危険な状況下にあるもかかわらず、日本人の老婆を海から救い上げ、その正体を失った老婆に手を尽くし介抱したこと、その老婆が毎日ヂアナ号に向かって手を合わせ拝んだ感謝の心、その老婆とロシア人の行為に素直に感服できた下田の町民達、まだほんの少ししか鎖国の扉が開かれていない幕藩体制下でのことであります。このことは宮嶋で5百人のロシア人を地元の人々が助け、同様にプチャーチン以下ロシア人が深く感謝したこと、そして戸田では日露協力により洋式造船「ヘダ号」が造られたことと共に、忘れてはならないことだと思います。ついでながら下田では老婆と共に2人の日本人水夫も助けられていることを付け加えておきます。

それから後部竜骨をもぎ取られ大破したヂアナ号の浸水の汲み上げについて古賀は記しています。「毎分1尺5寸(約45cm)の浸水に対し、27人の水兵が鐘の合図で整然交代しながらポンプ、滑車、革桶で浸水を汲み上げ、昼夜寸時も休まない。もしこれがわが国の船であったならとっくに沈没しているであろう」と。この作業は沈没する2日前位まで、つまり20数日間も続けられたのです。私は思い出しました。19年前のゴルバチョフ政権下、モスクワのあるホテルで、私はあらかじめ聞いていた開始時間になったので両替にいきました。信じがたいことですが、そこに職員がいるのに窓口を開けないので私は自分の腕時計を指差しみせました。明らかに定刻を過ぎているのに全然動じないで平然と仕事をしないでいたあのロシア人のおばさんのことが。同じロシア人でもその時代環境によってこんなにも人は違ってくるのですね。日本人は礼儀正しく真面目で働き者と言われてきましたが、今も同じだと私達日本人は言えるでしょうか。終戦後ひもじさのなかから立ち上がり、物の豊かさを求めたのは当然のことですが、それとともに最も大事な日本人の心を忘れてきているように思えるのですが。「温故知新」大事なことですね。

その日の夕方、津波がおさまると、ポシェートはプチャーチンの命令により軍医を連れて上陸し、役人に見舞いを述べ、傷病者の手当に協力を申し出ました。日本側もロシア側の行為に感謝しながらも丁重にお断りしています。ロシア側も死者、重傷病者に加え、ヂアナ号もまた致命的な破損をしているのですから。

12月24日(嘉永7年11月6日)津波被災の為、第2回日露会談は延期となりました。

12月25日(嘉永7年11月6日)ワシーリイ・マホフ氏のフレガート・ヂアナ号航海誌によりますと、アレクセイ・ソボレフ水兵の棺をロシア水兵達が海岸から玉泉寺まで担ぎ上げていく、その棺の前にはプチャーチン、士官達、マホフ神父と聖歌合唱隊が、棺の後からは乗組員が、行列となって「聖なる神よ!」と声高らかに鎮魂歌を歌いながら玉泉寺へ向かって行く、と日本人が大勢集まってきて平伏し、驚いていたと。葬儀はロシアの型通りにマホフ神父により行われました。そしてその150年後の2005年(平成17)3月6日に玉泉寺でロシア水兵4人(アレクセイ・ソボレフ、同じくヂアナ号のアレクセイ・パショウチキンとワシーリイ・バケーエフそしてアスコルド号のフィリップ・ユーデン)の墓前祭が、同寺の現、前2住職以下4人の日本人住職と、そしてロシア語の祈りを朗々と響かせたロシア人神父により執り行われました。異国の地に眠る4人にとって150年ぶりのロシア語の祈りはいかばかりであったでしょうか。この日、ガルージン駐日ロシア公使、そして鳩山由紀夫日露協会会長らも参列され、その後の日露友好の碑除幕式、第6回オロシャ祭にも参加されました。それはともかく、この玉泉寺は津波後の第2回、第3回の日露会談が行なわれた所でもあり、津波後ポシェート他数人が戸田のプチャーチンに連絡するために定住した所でもあります。また外国人の埋葬所であった為、米国人のお墓もあり、そして日本で最初の領事館(米国)でもありました。時間になりましたので最後に150年前に日魯通好条約の調印がされた所が矢張り下田のお寺「長楽寺」であり、その平和裡に調印された条約の第二条で、国境をエトロフ島とウルップ島との間に画定されたことをお伝えしまして終わりたいと思います。有難う御座いました。


下田港

長楽寺



ペリーロード



ヂアナ号
プチャーチン提督
川路聖謨勘定奉行

※上記写真は下田開国博物館ロシア語パンフレットより。