日露修好150周年記念回航事業 【函館から見た日露交流史

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岸 甫一
T 箱館・蝦夷地とロシア人の出会い
T−1ロシア使節ラクスマンの来航

1792 (寛政4)年9月 エカテリーナ2世の命を受けた使節アダム=ラクスマン〔別紙(1)〕、わが国の漂流民大黒屋光太夫ら3人を護送して根室に来航、シベリア総督の書簡を持参、通商を求める。同地で越冬。〔資料1〕〔別紙(2)
*1782(天明2)年12月船頭光太夫ら16人乗り組みの神昌丸が駿河沖で暴風にあい、北方に漂流し、翌年7月アリューシャン列島アムチトカ島に漂着して救助され、のちイルクーツク、ペテルブルグ等でロシア帝国の保護を受けた。
1793 (寛政5)年6月 ラクスマン一行、箱館入港〔資料2〕。ラックスマン、松前で光太夫ら漂流民を返す。


別紙(1)


別紙(2)

別紙(1) 日本人画家の描いたアダム=ラクスマン像(市立函館図書館所蔵)

資料1 根室におけるロシア使節団と松前藩士の交流・・・・・地図の交換
  「・・・さらに通訳の話では、上記の熊蔵が地球儀と地図に興味を持ち、できることならしばらく借り受けて写しを取りたいというので、持たせてやった。翌日彼を訪ねると・・・彼の手もとに松前島すなわち蝦夷とこの島から北西と南西の方向にあるからぶ樺太と呼ばれる島の地図があったので、写しをとるために借り受けた。写しを取ってから医師のけんご肩吾に文字をかいてもらい、その地図は今後の航海の参考までに航海士ロフツォフ氏のもとにのこした。」(アダム=ラクスマン著 ・中村喜和訳『日本来航日誌』)。

別紙(2) ロシア帝国地図部「太平洋におけるロシア航海者たちの発見地図」

資料2  好奇心旺盛な箱館住民
  「午後2時すぎ、箱館湾の停泊地に到着して錨をおろした。・・・本船のまわりにはおびただしい群衆がボートに乗って行き交い、中には好奇心から本船にとりついて中に入れてくれるように頼む者もいたので混乱が生じないよう、見張りに立った者たちが手に持った鉄棒を振り回し、群集のなかへ薪を放り投げさえした。・・・」(アダム=ラクスマン著 ・中村喜和訳『日本来航日誌』)


T−2 ディアナ号艦長ゴロヴニンの捕縛と日露文化交流

1811 (文化8)年5月 千島測量中のディアナ号艦長ゴロヴニン少佐ら、クナシリ島で幕吏に捕縛される〔別紙(3)〕。〔続いて松前で幽閉〜1813年、この間、通詞の村上貞助・上原熊次郎、ゴロヴニンからロシア語を学ぶ。〔資料3〕〔別紙(4)
1812 (文化9)年8月ディアナ号副艦長リコルド、ゴロヴニンの返還を求め、クナシリ島で交渉、拒否され、観世丸の高田屋嘉兵衛らを拉致する。〔この時、1807年フヴォストフらに捕えられた中川五郎治帰還、ロシアにて習得した牛痘接種法を伝える。翌年、幕府通詞の馬場佐十郎、ゴロヴニンらのロシア語教授でロシア牛痘書を翻訳開始=1820年完成:『遁花秘訣』〔別紙(5)〕〕
1813 (文化10)年5月リコルド、高田屋嘉兵衛らを釈放、9月ディアナ号箱館に入港し釈放されたゴロヴニンらを乗せ帰国〔資料4〕、ロシア側通訳としてキセョーフ〔ロシアに帰化した石巻若宮丸漂流民の善六〕が同行。


別紙(3)


別紙(4)


別紙(5)

別紙(3) 捕縛されたゴロヴニン一行とラショワ島アイヌ・オロキセ

資料3 ゴロヴニンの通詞・村上貞助へのロシア語教授
  「貞助はロシア語学習の第一日から珍しい才能を示した。彼は記憶力も強く、理解力も抜群で、ロシア言葉の発音能力も並はずれているので、(この男はロシア語を知っているくせに、何か魂胆があって白を切っているんぢゃあるまいか)と疑わざるを得なかった。(少なくともヨーロッパの1ヶ国語は知っているに違いない)と考えた。貞助はわれわれからロシア語を習う前に、熊次郎についてロシア語の言葉を沢山教わって暗記していたが、ただ発音が間違っていた。これはお師匠さんの発音が成っていないからであった。・・・生徒たちは殆ど毎日通ってきた。そして朝から晩まで詰め切りで、中食の時だけしばらく出て行くばかりであった。貞助は非常に早くロシア文字を読み習い、早速われわれから聞いた言葉をアルファベット順の自分の手帳に、ロシア文字で書き込んで行くようになった。」(ゴロヴニン著:井上満訳『日本幽囚記』)

別紙(4) 『松前幽囚 ゴロヴニン口述露語控』(市立函館図書館所蔵)

別紙(5) 『とんかひけつ遁花秘訣』 通詞の馬場佐十郎が翻訳したロシア牛痘書(市立函館図書館所蔵)

資料4 ディアナ号の箱館出港とゴロヴニンの感想
  「貞助と熊次郎と高田屋嘉兵衛は、本艦の出港を手伝うために派遣された数隻の小舟と共に、我々を見送ってくれた。本艦が湾内を間切っている間に、箱館市附近の海岸一杯に人だかりが出来た。いよいよ本艦が湾口に達した時、われわれの親友たるこの日本人たちは、心から訣別の挨拶を述べた。・・・・一同が本艦から離れる時、双方から『ウラー!』と叫んで、お互いの幸福を祈り、ロシアと日本の善隣関係が一時も早く結ばれんことを念じた。小舟に乗った日本人たちは、姿の見える間は休みなく礼をしていた。・・・さて私は、『日本側がわれわれを優遇し、釈放に同意したのは、彼等が臆病なためであり、ロシアの報復を恐れたためである』という一部の批評についてもう自分の意見を述べてもよいであろう。私自身としては、われわれに対する日本側の態度は、全く彼等の人間愛に根ざすものと考えている。」(ゴロヴニン著:井上満訳『日本幽囚記』)


U 箱館開港とロシアとの交流
U−1日露通好条約交渉と箱館

1853 (嘉永6)年7月ロシア遣日使節プチャーチンの艦隊、長崎に来港。12月プチャーチン、長崎に再来、国境策定と国交を求める。10月クリミア戦争始まる(〜56年)
1854 (嘉永7)年8月プチャーチン乗船のディアナ号、箱館に入港〔別紙(6)〕、1週間滞在、後大坂へ向かう。11月ディアナ号、地震のため沈没。日露協力して「戸田号」建設、12月、日露通好条約、下田で調印される。下田・箱館・長崎を開港、エトロフ・ウルップ島間を国境とし、樺太を両国雑居の地と定める。
1855 (安政2)年6月プチャーチン乗艦の残留者、下田入港のドイツ船を傭い帰国、途中イギリス軍艦に拿捕される〔捕虜生活中、ゴシケヴィッチは、密出国した橘耕斎の協力で和露辞典を編集=『和魯通言比考』1857年出版 〔別紙(7)資料]
1856 (安政3)年10月ロシア使節ポシェット、日露通好条約批准書交換のため下田に来航。戸田号とディアナ号の艦載砲を幕府に寄贈〔資料5〕。
1859 (安政6)年東シベリア総督ムラヴィヨフ、領土規定の明確化のため清国・日本を歴訪、箱館に3度寄港〔資料6〕。翌年ウラジオストク、海軍基地として開かれる。


別紙(6)


別紙(7)

別紙(6) 箱館湾のディアナ号(モジャイスキー画)

別紙(7) ゴシケヴィッチと橘耕斎共著の『和魯通言比考』(市立函館図書館所蔵)
  1857年ペテルブルグで出版。本文423頁、約1万8000語の見出語。この辞書を上回る和露辞典はその後数十年間、ロシアではでなかった。日本でも同様である。(中村喜和『ロシアの風』より)

資料5 幕府に寄贈されたディアナ号の艦載砲
  「この戸田号は幕府と官軍との戦争にでも使われたと見えて、明治5年にポシェートが皇族に随行してまた日本へきた時に、箱館で廃艦になっているのを見つけて、保存を勧めたという。大砲は品川のお台場と箱館の弁天砲台に据えつけられたが、箱館戦争の時に榎本武揚がそれを幕府の回天艦に移して官軍と戦った。」(平岡雅英著『日露交渉史話』)

資料6 1859年ムラヴィヨフの清国・日本歴訪ルート・・・補給地:箱館の重要性
ニコライエフスク→箱館(西暦6/27)→ピョートル大帝湾→清国沿岸→箱館(西暦8/10)→江戸→箱館(西暦9/12)→ニコライエフスク (原暉之『ウラジオストク物語』より)


U−2 箱館開港前後の日露文化交流とニコライの活動
1858 (安政5)年ロシア領事ゴシケヴィッチ一行着任(高龍寺・実行寺に分宿)。亀田にロシア病院設置される。
1859 (安政6)年箱館、神奈川・長崎と共に開港場となる。ロシア人墓地に軍艦アスコリド号航海士埋葬される(最初の埋葬者)〔別紙(8)〕。医師アルブレヒトの気象観測。司祭ワシーリイ・マホフと読経士イワン・マホフ着任。
1860 (万延)年 現正教会地に領事館竣工。同地内に教会も併設される〔別紙(9)〕。植物学者マキシモヴィチ来港。北京条約によりウスリー川以東ロシアに割譲。
1861 (文久元)年 司祭マホフの後任としてニコライ着任〔別紙(10)〕〔資料789〕。イワン・マホフ『ろしあのいろは』を作成〔別紙(11)資料〕。諸術調所教 授武田斐三郎らを洋式船亀田丸でニコライエフスクに派遣。
1863 (文久3)年 領事館の隣にロシア病院竣工、医師はアルブレヒト。
1864 (元治元)年 大町居留地にピョートル・アレクセーエフ、ロシアホテルを開業。
1865 (慶応元)年 イギリス領事館の火事でロシア領事館も類焼。幕府のロシア留学生が箱館から出港する。
1866 (慶応2)年 ロシア領事らから写真を学んだ木津幸吉、写真屋を開業。ロシア病院火事で焼失。


別紙(8)


別紙(9)


別紙(10)


別紙(11)


別紙(11)

別紙(8) ロシア人墓地

別紙(9) 初期の正教会

別紙(10) 若きニコライ像


資料7 ニコライ、来日の動機を語る(駿河台で催された来日40周年の祝賀会での演説)
  「・・・しめくくりとして、わたしが、どうして日本へ来たかを話した。ゴロヴニーンの手記を読んで日本民族への愛情がわいて、それでやって来たこと、キリスト教の宣教のためであったこと、宗務院が日本の領事館の司祭を募集した結果であったことなどを話した」(1901年7月10日『ニコライの日記』;中村健之介著『宣教師ニコライと明治日本』)

資料8 箱館でのニコライの活動
  「ニコライ大主教が日本語研究をはじめたのは函館にいたときであり、彼は自分でも常に8年間の日本語ならびに日本の研究がなかったならば、宣教の事業をこれほど能率的におしすすめることは決してできなかっただろう、と語っていた」(D.Mポズネーエフ『明治日本とニコライ大主教』;中村 前掲書より)

資料9 ニコライの 日本研究
  「ある年、函館のしょし書肆が閉店するというので、ニコライ師は其書庫全部を買い取って〔後に東京駿河台の〕教会の図書館に保存された。その書を見ると法華経、日本外史、その他の欄頭に紫の鉛筆で露文の細書がある。甚だしきは十返舎一九の戯作、道中膝栗毛にまで欄外に露文の批評が書いてある。かうした批評までついてある貴重な蔵書は惜しいかな大正十二年の大震災にことごと悉く烏有に帰した」(『大主教ニコライ師事蹟』中村 前掲書より)

別紙(11) イワン・マホフ『ろしあのいろは』(市立函館図書館所蔵)
  「日本の新年までに百冊以上のアズブカが出来上がったが、そのうち2冊はロシアの便箋に印刷して絹の表紙をつけ、もう1冊は多色の便箋に印刷して最上の絹地の表紙をつけ、これら3冊には版画が添えられた。私は元日(露歴1月29日)に最初の2冊を箱館奉行と副奉行(組頭)に、最後のものは奉行を通して将軍に献上した。以上のほか私は百部を箱館の子どもたちに、さらに百部づつを江戸・京都・長崎の子どもたちへ私からの贈り物として奉行に提出した。奉行と副奉行は贈り物を非常に喜び、将軍のためのアズブカの豪華な装丁にはとくに驚いた。その後で私が「サヨウナラ」というと、奉行は私に手を差しのべてアズブカを読みながら「プロスチャイテ」といい、副奉行はアズブカを見ることなく握手しながらすぐに明瞭に「ダスヴィダーニャ」と答えた。」
(『海事集録』1861年1月31日付けの通信より、秋月俊幸訳)


V 日露交流全盛期の函館と露領(北洋)漁業
V−1 露領漁業の勃興と函館:19世紀末〜ロシア革命(1917)

1896 (明治29年)年大家七平、ウラジオストク〜新潟(函館寄港)・函館〜コルサコフの航路開設。ロシア企業のコーチック商会、カムチャッカで日本風塩蔵鮭 の製造を試みる〔資料10〕。
1898 (明治31)年函館尋常中学商業専修科(函商)でロシア語教授始まる。ロシア、清国から旅順・大連の租借権を獲得。
1899 (明治32)年 函館・大町にセミョーノフ商会できる〔セミョーノフは1870年、ウラジオストク初代首長に選ばれる〕。函館の斉藤豁三郎、ウラジオストクの実業家ブリーネル〔男優ユル・ブリンナーの祖父〕の名義で許可を受け、カムチャッカへ出漁。ロシア東清鉄道汽船部、ウラジオストク・カムチャッカ・サハリン便の航路開始。
1900 (明治33)年ロシア副領事ゲデンシュトロム着任。露領漁業の勃興に伴い函館港の重要性が増し、本格的な領事館の必要性が認識される。
1902 (明治35)年 シベリア鉄道開通する。「旧ロシア領事館」所在地を買い上げる。東洋学院生アレクセイ・コベリョフ、研修のため函館を訪れる。
1903 (明治36)年7月 ロシア領事館の建設着工。
1904 (明治37)年2月 日露戦争起こる。ロシア領事引き揚げる。領事館工事中断。
要塞地帯法により正教会司祭・在留ロシア人など函館退去命令を受ける。
1905 (明治38)年9月日露講和条約調印。南樺太日本領有となる。日本郵船、函館〜大泊航路開始。
1906 (明治39)年5月副領事トラウトショリド着任。12月領事館竣工。ロシア政府、ウラジオストク・函館・カムチャッカ便を東亜汽船会社、翌年に極東汽船会社に開かせる。
1907 (明治40)年函館大火により領事館・正教会焼失する。領事館即座に再建開始。日露漁業協約締結。大阪商船、ウラジオストク航路(函館寄港)開始。
1908 (明治41)年1月函館デンビー商会設立〔本社ウラジオストク〕。函商の学生、商工業調査のためウラジオストク訪問〔資料11〕。12月領事館完成(現在に至る)〔別紙(12)〕ロシア義勇艦隊、ウラジオストク・函館・カムチャッカ便、ウラジオストク・敦賀急行便、ウラジオストク・長崎便を開始。
1912 (明治45:大正元)年ニコライエフスク市から観光団来函。ロシア語版『函館案内』出版される〔別紙(13)資料〕。正教会で夜学のロシア語教室を開く。
1914 (大正3)年露領漁業貿易研究会発足。この頃、銭亀沢村大字笹流に旧教徒ロシア人一行入植する。第一次世界大戦勃発。
1916 (大正5)年ハリストス正教会聖堂、再建なる(山下りんのイコン)〔別紙(14)〕。


別紙(12)


別紙(13)


別紙(14)

資料10 幕末のロシア語通訳・合田光正、露領漁業の先駆者となる。
  コーチック商会(日本では「オットセイ商会」とも呼ばれた)は、カムチャッカ水域で捕獲された鮭の日本式乾燥塩蔵に成功し、これを日本に輸出した。このとき労働者の供給地であり、鮭鱒の水揚港であったのが函館である。この新事業展開に際し、同商会と日本人漁業者の仲介を行い、大々的に船を手配し、日本人労働者を集めたのが合田光正である。
  合田光正が通訳の修行を始めたのは1862(文久2)年である。当時、箱館奉行所・ロシア側双方とも通訳が不足していた。箱館奉行は長崎からロシア領事館付きの通訳として来函した志賀浦太郎を同年、配下に雇い、通訳のみならず、通訳者養成を命じた。合田はこのとき志賀の門下生となったのである。合田は1865年に同僚とともに修道司祭ニコライについて勉強したいと願い出て、ニコライも彼等の先生として一役かっている。合田は開拓使に引き続き職を得て、函館で訳官として働いたが、1876年に開拓使を退任した。(清水恵「幕末のロシア語通訳、合田光正のその後」を要約)

資料11 函館商業学校の学生、商工業調査のためウラジオストク訪問。アリベルス百貨店店員の親切に感動する。
  「百貨商店アリベルスに行き、種々買い物を為せしが店員は余らが怪しげなる露西亜語をいちいち丁寧に聞き分け、或いはその意を推察し品物を出し見せ少しも不便を感ぜしめず、例へ一枚の絵葉書を買ひても少しにても傷等あるときは余の心付かざるに他の良き方を出し取り替ひ、丁寧に紙に包みて渡す等実にその親切なること他国人とは思われざるほどなり、また品物を買えば伝票を渡し、これを計算係に示して代金を支払い、伝票と引き替えに品物を受け取るなり」(原輝之:講演報告集「函館とウラジオストク」より)

別紙(12) 旧ロシア領事館

別紙(13) 1912(明治45)年のロシア語版『函館案内』(市立函館図書館所蔵)

  両替・交通案内から始まり、市内の主要機関・名所旧跡・ホテルそして函館から敦賀、長崎、ウラジオストクなどへの行程が掲載されている。その後、日露二カ国で、「いくらですか」「私を案内してください」といった実用的文例に6頁が割かれている。さらに市内50店ほどの商店の広告が写真や挿絵入りで掲載され全部で約60頁の仕上がりとなっている。この冊子の発行人は加藤一徳となっているが、彼はこの時デンビー商会というロシア系の会社に勤めており、後には日魯漁業(株)で外事係として活躍した人物である。 (清水 恵)

別紙(14) ハリストス正教会聖堂


V−2 函館在住ロシア人の活躍と北洋漁業:ロシア革命〜1935年頃まで

1917 (大正6)年 11月ロシアにソヴィエト政権樹立(ロシア10月革命)。
1918 (大正7)年 8月シベリア出兵はじまる。
1920 (大正9)年 尼港事件。極東共和国成立。北樺太保障占領開始
1921 (大正10)年 日露漁業(株)発足する。この頃から元町に亡命ロシア人が住み着く(ロシア長屋)。
1922 (大正11)年 栗林商会、函館〜ペトロパブロフスク便を開設。ソヴィエト社会主義共和国連邦成立。秋、カムチャッカから白軍兵を乗せたロシア引揚船が一時函館港に停泊、強制退去を命じられる。〔資料12〕。
1923 (大正12)年 後藤・ヨッフェ会談によりウラジオストクから査証官来函。ツェントロソユーズ出張所できる。ロシア帆船「ヘンリッター号」海上ホテルとして係留されロシア人漁夫の宿となる。
1924 (大正13)年 栗林商会、ラジオストク航路(函館寄港)経営始める。市内にロシア人漁業家34人居住。
1925 (大正14)年 日ソ基本条約調印。新ソ連領事ロギノフ一行着任。駐日ソヴィエト通商代表部函館支部、ソ連商船隊函館支部設置される。日露協会函館支部設置。函館在留ロシア人の人数がピークとなる(157人)、この頃一時的居留者を含めると最大300人位といわれる。〔別紙(15)資料〕〔別紙(16)〕。北海道主催の極東露領視察団
1926 (昭和元)年 函館市主催・露国展覧会開催。川崎汽船、ウラジオストク回航便開始〔年間に函館に11回以上寄港〕。ソヴィエト商船隊函館支店長ヤホントーフ着函。
1927 (昭和2)年 ソ連企業カムチャッカ(株)、同ルイボ・プロドクトの函館出張所できる。旧領事館の修復なる。ロシア極東視察団来函。函館のロシア語通訳、1000人を越え団結の気運が高まる。
1928 (昭和3)年 日ソ漁業条約調印。ロシア語新聞『週刊函館』発刊〔別紙(17)資料〕。
1929 (昭和4)年 ロシア語通訳、北洋同志会を結成し、機関誌発行及びロシア語講習会開始。
1930 (昭和5)年 A.Gデンビー、函館市より産業功労者として表彰される。アルハンゲルスキイ、ロシア語新聞「オブゾール ヤポンスコイ プレッスィ」を発行。
1931 (昭和6)年 9月「満州事変」始まる。
1932 (昭和7)年 川崎汽船、ウラジオストク回航便を廃止〔前年の「満州事変」によりウラジオストクからの貨物減少のため〕
1933 (昭和8)年 ソ連企業、北洋漁場での日本人の使用を一切やめる。
1935 (昭和10)年 ソ連通商代表部函館支部閉鎖。


別紙(15)


別紙(16)


別紙(17)

資料12 ペトロパブロフスクからの引揚船マグニット号とシーシャン号の函館寄港
  日本政府が唯一、大量のロシア人避難民に対処しなければならない事態に追い込まれたのは、シベリアに出兵していた日本軍が沿海州からいよいよ撤兵を完了し、それに替わってウラジオストクに赤軍が入市した1922年秋のことであった。マグニット号(乗員114名)とシーシャン号(乗員102名)が白軍とその家族を乗せペトロパブロフスクを出港し函館港外に現れたのは11月8日であった。函館でウラジオストクの政変を知ったことから、両艦の白軍将卒と船長・乗組員との間で今後の行き先を巡り大きく対立した。それが大きな騒動へと発展し、函館水上署から強制退去命令が出され、マグニット号は11月15日元山へ向い、さらに上海へと去り、一方シーシャン号は12月16日ウラジオストクへ向けて出港した。(倉田有佳「ロシア極東から函館に避難したロシア人」を要約)

別紙(15) 函館在留ロシア人・ソ連人数
  1920年代後半から30年代初頭までほぼ100人前後で推移し「ソ連」国籍者のほうが多かった理由: 国交樹立後も、ソ連領事館の開設はもちろん、ソ連商船隊の支部や通商代表部支部などが設置された。それだけではなくリューリ商会のように帝政ロシア時代からの漁業家たちの実力を認め、ソ連政府は当初そのノウハウをいかすために、ソ連国籍を与えるなどして彼らも迎え入れたのである。函館に亡命していたロシア人のなかにも、この時期ソ連の公的機関で働いた人たちが少なくなかった。

ロシア革命後、函館に来たロシア人
デンビー
日魯漁業(株)のよきライバルだったデンビー商会の経営者。本社はウラジオストクで、函館 にも支店をもっていた。革命後デンビー一家は函館に亡命してきた。谷地頭にデンビーの屋敷があったが、そこに向かう坂のことを「デンベの坂」と呼ぶほど地元になじまれていた。
アルハンゲリスキー
元ロシア帝国の漁業監督官という要職にあり、革命後、函館に亡命した。元町の通称ロシア長屋に住んで、ロシア義勇艦隊の船舶を取り扱う仕事をし、引き続きソ連商船隊函館支部でも仕事をした。その後、商船隊をやめて日魯漁業(株)に勤務した。
カラリョフ   貴族出身でロシア海軍少佐であったが、単身で函館に亡命した。そして「カムチャッカ(株)」、通称アコというソ連国営漁業会社の函館支店で活躍した。その後、アコを止めざるを得なくなり、日魯漁業(株)に入った。 日魯漁業(株)で2人は、ソ連の漁業法規の解釈や漁場で働く通訳養成のため貢献した。
サファイロフ   リューリ商会の会計係であったが、革命後、函館に亡命した。リューリ商会撤退後は定職なく、湯川で自宅のまわりに木イチゴを植え、そのジャムを売って生計を立てていた。(清水恵「ロシア革命後、函館に来たロシア人」より)

別紙(16) 函館の街角で立ち話をするロシア人女性 (熊谷孝泰氏所蔵)

別紙(17) ロシア語新聞『週刊函館』(市立函館図書館所蔵)

  ほとんど漁業・経済関係の記事で構成された商業紙で、週2度の発行であった。翌年から毎日発行となった。これとは別に日本語版もあり、これは週に1度の発刊である。発刊の辞によれば、この新聞の使命は「日本立国の精神は常に高唱するものであるが、他面露国の主義制度に充分の理解を持ちこの両国を経済的に結付け唇歯輔車の関係に置いて、世界の経済市場に両国の確固たる地位を築かしめる」というものであった。
この年1月、日ソ漁業条約が調印され、函館にはソ連国営漁業会社も進出しており、ロシア語新聞の需要を期待したのであろう。本紙の編集兼発行者の竹内清は、大正15年から昭和3年まで大阪朝日新聞の通信部に入りハルビンにいた。帰国後この新聞を発行したのである。しかし経営難から昭和4年5月に新聞社は解散となった。しかし、ロシア語新聞の出現自体が、当時の函館とロシアの関係の深さを裏付けるものである。
(清水恵「ロシア語刊行物とロシア関係団体」;『函館市史』通説編 第三巻所収)