若手研究者等フェローシップ(2011)




森下信子
2012年8月

2012年6月から7月にかけて、タタルスタン共和国とバシコルトスタン共和国を訪れる機会があった。両国は、ヴォルガ川中流に位置する天然資源国であり、国民の多数派をイスラーム教徒のテュルク系タタール人(以下、ヴォルガ・タタール人の意)とバシキール人が占めている。イスラーム教徒の国のはずだが、かの地を踏んだ私が感じたのは、意外にも「イスラーム色の希薄さ」であった。

ユネスコ世界遺産のカザン・クレムリン。
イスラームとロシア正教の共存を象徴。

カザン・クレムリン内にあるクル・シャリーフ・モスク。
ブルガール、タタールの伝統復興を象徴。
現在の建物は、9年の歳月をかけて2005年に完成。



馬乳を発酵させて作るアルコール飲料
クミス(馬乳酒)。モンゴルから中央アジ
アにわたる遊牧民の伝統飲料。タター
ルには馬肉食の伝統もある。日本の馬
刺しの話をすると興味を示していた。

普段サンクトペテルブルグで生活していると、イスラームを感じる機会はほとんどない。町中のシャワルマ屋の肉はハラールなのだろうが、ハラール食料品店は、数少なく目立たない。ロシア人の友人にイスラームについて意見を聞くと、あまり関心がないか、移民やテロリストなど「厄介者」の宗教といった認識しかない。これゆえ、かの地の訪問は、私がロシアにおけるイスラームを考え直す良い機会となった。

確かに、かの地では、モスクワやサンクトペテルブルグのように、ビール瓶を片手に道行く人をほとんど見かけない。もっとも、ウファに到着した初日、二時間時差があることを忘れて出かけた真夜中の買い物で、店にたむろしていた酔っ払いに追いかけられるというハプニングはあった。それでも、街中で堂々と酒を飲み歩く人は皆無に近く、これには、やはり多少なりとも、イスラームが関係しているのだろうと思われた。

2006年にウズベキスタンを訪問した際、ロシアの存在が透けて見えるイスラーム世界の姿は、私の目にとても新鮮で興味深かった。それと比べると、今回は何か肩透かしを食らったような思いがした。これが何に起因するのか、その理由を知るには歴史を省み、現状を知る必要がある。


ロシアとイスラームの歴史は長く、その関係は深い。ロシアの起源を862年のノヴゴロド公国成立とすれば、ダゲスタンにはその1世紀前にイスラーム軍が到着していた。キエフ大公国が栄えた10世紀には、ヴォルガ川流域にイスラーム国家ヴォルガ・ブルガールが誕生する(922年)。モンゴルの支配を経て、タタール人が雷帝イヴァン4世に支配された16世紀半ば以降、ロシアはその領土にイスラームを内包するようになった。

18世紀初サンクトペテルブルグの建設には、当初からタタール人を中心とする多数のイスラーム教徒が従事した。彼らは、労働力としてのみではなく、商人や職人、陸海軍人、護衛、学者などとして、多分野でロシアの発展に貢献した。町には次第に「イスラーム教区」のようなものが発達し、ムアッジンやムッラーは公的役職となった。1913年には初めて、町の中心ペテロパブロフスク要塞の直近に、当時最大のモスクが完成する。


ベラヤ川を見下ろすバシキール人の民族的英雄
サラヴァト・ユラーエフの像。18世紀後半、農奴制
廃止を求めてプガチョフの乱に参加し、エカチェ
リーナ2世に抵抗した。

一方、ロシアの民族政策は、時に少数民族に対して威圧的であった。土地所有や軍役にも制約が設けられた彼らは、正教に改宗し、ロシア語を母語としてロシア人に同化することで貴族となることができた。カラムジン、サルティコフ、ツルゲーネフ、チャアダーエフ、デルジャービン、リョーリョフなどロシア文芸の名手たちは、これら改宗タタール人貴族の末裔である。但し、タタール人や特にバシキール人の民衆の大半は、棄教を拒否し、その後厳しい時代を生きることとなる。

彼らの中には、安住を求めて周辺諸国へ移住した者もいた。私がカザンで出会ったフィンランド人は、そんな出自の人であった。彼の祖先は19世紀末、迫害を逃れてヴォルガ川流域からフィンランドに移住した。彼らはそこで共同体を作って生活し、家庭内ではタタール語を話す伝統を守り続けた。


これゆえ、彼は今でも流暢なタタール語を話し、幼い頃は、アラビア語とクルアーンを学ぶ努力もしたという。彼の名は、姓名ともトルコ語風に訛ったアラビア語であったが、私が解説するまで、彼は自分の姓の意味を知らなかった。この地に特有のイスラームの新しい形に触れた出会いである。


ウファを流れるベラヤ川。
現地語名アギデルも「白い川」の意

現在ロシア連邦は、100以上の民族を抱える多民族多文化国家といわれる。しかし、帝政ロシア、さらには特にソビエトの同化政策を経て、各民族の独自性は一部失われ、また目立ちにくくなっている。「異族人」政策は、タタール人やバシキール人には適用されず、彼らは、社会主義国国民として新たなアイデンティティを得た。1991年ソビエト連邦解体に伴い、彼らは名義上の国民国家を形成して現在に至る。

この中で中央政府は、伝統的スンナ派イスラームに対しては、寛容政策を採るようになった。各管轄区では、政府に指名された人物が主要宗教機関との連絡役として配置されている。一方、ワッハーブ派やギュレン運動、解放党、ファイズッラフマン派などの急進的な改革思想に対しては、警戒網が張られている。サイード・ヌルスィーやタキー・アル=ディーン・アル=ナブハーニーらの著作は禁じられ、連邦保安庁による監視が今も続いている。

私は以前、友達になったある方に、サイード・ヌルスィーの著作を贈り物としてもらった。ウファで偶然その話をすると、友人は血相を変えて「その本をすぐに処分するように」と私に忠言した。告発されれば、簡単に複数の罪で数年は刑務所に入ることになる、という。「郷に入っては郷に従え」、当地のルールを知らずにいるのは無謀なことであった。

また他方、伝統宗教の最高権威であるムスリム宗務協議会のムフティー、タルガト・タージ・アル=ディーンは、信仰心篤いカリスマ的指導者ではなく、ビジネスに奔走しタブロイド紙を騒がせる俗人であることが、今や周知の事実となっている。このような状況を、大多数のイスラーム教徒たちは、どこか白けた眼差しで眺め、革新思想からも伝統宗教からも距離をおいて、ただ平和に暮らそうとしている。私の感じた「イスラーム色の希薄さ」は、このような彼らが生きた歴史と現状の中から生まれてきたもののようだ。


ウファのグフラーン・モスクにほど近い
古いムスリム共同墓地の墓石。アラビア語で
「死は訓戒として充分である。故マセティブ、
ムハンマド・アル=ラヒームの娘」と刻まれている。

今回の旅について書きたいことは、実は山ほどある。しかし、最も興味深かったのは、やはりこの国の複雑な民族構成と社会様相を体験的に認識したことであった。ロシア語には、「ロシア人」を意味する語が二つある。一つは、ロシア連邦国民としてのроссияне(ラスィヤーネ)、もう一つは、東スラブ民族の一つとしてのрусские(ルスキイェ)である。通常、ロシアの概説書やガイドブックでは、「ロシア連邦の住民は80%以上がロシア人(русские)」といった説明をよく目にする。私のような浅学な人間がこれを見ると、まるでロシアは、単一多数派民族が支配する国だという錯覚を起こす。しかし、このロシア人(русские)が指すものは、幾世代にもわたる複雑な民族間の通婚の結果、すでに厳密に明確ではない。ロシアを代表する著名人、例えばレーニンやスターリン、チャイコフスキーにしても、このロシア人(русские)の定義からは外れてしまう。ロシア史を翻弄してきたユダヤ人ですら、しばしば完全にロシア人化しているのである。このように、ロシアの民族構成は、教科書的に説明できるほど明快ではない。それは、実に混沌としていて、また、メディアのイメージとは裏腹に「平和」である。

タタール人についても同じことが言えよう。旅先でよく「タタール人はどんな外見をしているか」という話題になった。ある人は、薄い金髪・白肌・青目が純粋なタタール人だと言い、確かに、そのような人も見かけた。他には、黒髪・褐色・茶色目、栗色髪・白肌・焦茶目の人にも会った。先述のフィンランド人にいたっては、青い瞳を除けば、いわゆる「ソース顔の日本人」で通用する顔立ちをしていた。タタール人も、外見上の特長や、宗教、行動様式などから簡単に判断できるほど単純ではない。

このような状況はいかに起こってきたのか。まず、ロシアが10世紀以上にわたる民族混交のプロセスを経てきたのは言うまでもない。しかし、特筆に価するのは、殊にソビエト連邦社会が、各民族集団や宗教などに対し、隔離された環境で生活することを許さなかったことである。結果、今日もモスクの導師が正教の聖職者と家族ぐるみで親しく付き合い、政府高官がかつての同級生である掃除夫や物売りと頻繁に会って対等に酒を酌み交わすといった状況がある。私の知る限り、これはロシアならではなのではないだろうか。純ロシア名のユダヤ人イスラーム教徒と気軽にBBQピクニックに行くなんてことも、おそらく他ではなさそうである。このような民族の複雑な混交とそれが生み出す平和な雰囲気は、疑いなくロシアの母なる川に抱かれた国々の魅力の一つである。



バシコルトスタン共和国ジュコヴォ近くの湖でBBQピクニック。
右から、タタール人ムスリムのイスカンデル、ユダヤ人ムスリムのユーリー、
タタール人ムスリムのリアナ、ユダヤ系ロシア人のアルフィヤ。宗教色は薄い。