若手研究者等フェローシップ(2010)



阿出川 修嘉
2011年6月

当月の13〜18日にかけて、サンクト・ペテルブルクに滞在した。当地で行われる「Lexicom2011」というワークショップに参加するためである。これは、辞書学及び辞書編纂への電子コーパス等の利用に関するノウハウを学ぶもので、Lexical Computing Ltd.社、サンクト・ペテルブルク国立大学、ABBYY社の三者共催で、ネヴァ川河畔にあるサンクト・ペテルブルク国立大学文学部を会場に、五日間(14〜18日)に渡って行なわれた。

モスクワから彼の地までの交通手段としては、新たな「足」として2009年に開業したサプサン(モスクワを経由してサンクト・ペテルブルクとニージニー・ノヴゴロドを結ぶ高速鉄道;車両はドイツ・シーメンス社製)を行き帰りともに利用した。報告者が利用した車両では、時間は4〜5時間かかったものの、概して運行はスムーズであった。実際の運転時は、車両内の表示によれば速度は最高で時速200キロ前後まで上がっていたが、(報告者の車両に同乗していたスペインからの団体客の騒がしさを除けば)不快な騒音や震動などは全く感じず、極めて快適な移動を提供してくれた。


写真 1:サプサン(モスクワ・レニングラード駅にて)

ペテルブルクは、全体として、モスクワよりも街並が古いという印象を受ける。この古さこそが街全体の雰囲気に落ち着きを与えており、古都ならではの魅力を醸し出しているのだろうと思われる。報告者が宿を取ったのは、会場となる大学があるヴァシリエフスキー島の、大ネヴァ川河畔から歩いて15分程の場所であったが、この地区は海に近いからか、空気も全体的に湿度が高く、時に潮の香りすら感じることが出来た。これもモスクワとの大きな違いである。もっとも、今回参加したワークショップは、朝の9時から17時まで講義がびっしりと詰まっており(第三日及び最終日のみ変則スケジュール)、報告者が大学学部に在籍していた当時の時間割以上に濃密な講義スケジュールだったため、のんびりと古都散策を楽しむというような時間を実際には余り取れなかったことは残念だった。

ワークショップには、ヨーロッパを中心とした様々な国から多様な参加者が集まっていた。ざっと参加者の国を列挙すると、ロシア(モスクワ、ペテルブルク、チュメンニ)、フィンランド、ラトビア、リトアニア、セルビア、スロヴェニア、ブルガリア、ルーマニア、イギリス、イスラエル、サウジアラビア、マレーシア、日本(報告者)である(後日配布された名簿による)。参加者それぞれの所属機関もまた様々で、各国の科学アカデミーやその他の教育関係の省庁や教育機関、大学院、一般企業などであった。これだけの多種多彩な顔触れが集まるイベントに参加するのは報告者にとっては初めてであり、こうした雰囲気を味わうだけでも、非常に刺激的な体験だった。

総じてワークショップの内容は非常に充実したものだった。辞書編纂、辞書の各項目(エントリー)の記述をめぐる問題点(語釈の記述や適切な例文についての考察など)、辞書編纂に必要な言語コーパスの構築、それを可能にする各種ツールの利用法とそれを用いた語の意味・用法分析の方法、辞書編纂作業管理システム(Dictionary Writing System)についての概要説明等々、内容は多岐に渡った。

また、五日間のスケジュールの前半はほぼ講義で占められていたが、日程が進むにつれ、学内のコンピューターあるいは参加者自身が持参したノートブックPCを利用し、講義の内容を元に実際のツールに触れてみたり、辞書の具体的な利用者を想定した上で、実際に課題の単語の語釈の記述をしてみるといった実技の時間も適度に設けられていた。講義一辺倒に陥ること無く、得た知識をすぐに実際の作業に移し自分で試しながら確認するという機会が与えられていたことも効果的だった。


写真 2:会場となった国立サンクト・ペテルブルク大学文学部

今回、辞書や意味の記述に対する新たな視点を得たことは、現在日本で出版されているロシア語の辞書(露和辞典・和露辞典)が抱えている諸々の問題点について、考えをより一層巡らせる良いきっかけにもなった。

英語の辞書においては、書籍版と電子版の間の垣根はほとんど無くなっているし、辞書編纂に際して、大規模な言語コーパスからのデータ利用や、DWSによる作業の効率化といったものは、既に行われるようになって久しい。今後ロシア語の辞書を編纂していく上でも、英語の各種辞典のように、より利便性の高い、より質の高い辞書を、スピード感を持って編纂・出版することが求められるのは必至である。何よりも、絶えず変化し続ける言語の使用実態を辞書に反映させ、意欲の高い学習者や、現場で実際にロシア語を使っている利用者のニーズを満たすことを第一に考えるのであればそうするべきである。近年のコンピューターの低価格化と個人への普及、またウェブを含めたネットワーク環境の充実などといった要素に加え、辞書編纂にも応用しうる言語コーパスや分析のためのツールもウェブ上に出揃い始めており、且つこれらは比較的安価なコストで利用することが出来る。これらを援用すれば、辞書編纂・執筆に伴う作業上の煩雑さや、効率の悪い状況の改善が望めるわけで、経済的・時間的なコストを減じつつも、辞書の記述内容を従来よりも一層充実させることが可能になるだろう。ロシア語の辞典を、英語の各種辞典の水準に少しでも近付けていくのに必要な環境は徐々に整いつつあると言える。

今回センターの支援の下本ワークショップに参加し、辞書学とその周辺領域の、恐らく世界で最先端の情報に触れられたことは大いなる収穫であった。報告者にとってはその多くが新しいものであり、言語の「意味」を対象とする自身の研究活動においても、必ずや有益なものとなるに違いない。ロシア語辞書編纂の作業に関わる機会が今後頂けるかどうかに拘らず、今回改めて、従来とは異なる角度からの問題意識を持つことができたことも決して無駄にはならないだろう。