若手研究者等フェローシップ(2005)

2005年9月
サハロヴァ・エヴゲーニャ

来日直後


私に初めて、半年間、助成金を得て日本へ行くチャンスがやってきました。それも、他でもない、古都、京都へ。出発まで約1ヶ月、住居を見つけなければなりませんでした。そこにはたくさんの発見が待っていたのです。

日本の住宅賃貸制度はロシアとは驚くほど違っています。第一に、部屋は普通、すっかり空っぽの状態で貸されます。部屋には電話ばかりか、台所のコンロすらありません。第二に、「礼金」「敷金」制度が存在します。「礼金」とは家主へのほぼ強制的な贈り物のお金で(通常、家賃の2-3ヶ月分)、戻ってきません。「敷金」は保証金で、もし退去後修理が必要なければ全額戻ってきます。第三に、必要な場合に代わって物的責任を持つ覚悟のある保証人がないと貸してもらえません。もちろん、保証人になれるのは日本人だけです。そして、最後、第四に、普通、賃貸期間は1年以上です。


その他に、どの住宅検索サイトでも、築年数が他の情報と並んで必ず表示されています。これは、新築物件の方が耐震性があるからです。

結果として、私は、必要最小限の家具付きで、「贈り物」を要求せず、保証金があまり大きくなく、保証人を必要としない部屋を見つけることができました。実際、この住居は平均的な市場価格よりいくらか高くつきましが、5階建て賃貸アパートの一室のとても快適な日本式の部屋(床は畳が敷かれており、ドアの代わりに引き戸があります)でした。このアパートには外国人も日本人も住んでいます。

かなり早い段階で、日本人はそとでは非常に親切だと確信しました。道を尋ねると、詳しく、とても親切に説明してくれますし、ときには必要なバス停や場所に案内してくれたり、一度は行きたいお寺に車で送ってくれたこともあります。それでも、最初のうちは、苦境に立たされました。

というのは、手引書(訳注:フェローのための手引書)に従って、来日後すぐに、銀行に口座を開設する必要がありました。その後でないと、フェローシップ助成金として私に支払われるお金を受取ることができませんでしたが、この口座の開設が信じがたいほど難しかったのです。

35度のすごい暑さでした。日本人たちはハンカチで汗をぬぐい、若者はビーチサンダルで街を闊歩し、おしゃれな女性は黒や白の日傘で太陽を避けて歩いていました...。

最初の二つの銀行では、極めてもっともな言い訳で断られました。私が「ガイコクジン(外国人)」で、彼らの制度のことを分っていないからということが明らかでした。この銀行はお互い、通りをはさんでだところにありました。そのどちらの銀行でも向かいの銀行に行くように言われました。いろいろ考えて、家に戻って、私のステータスを証明する書類をとにかく全部持ちました。3つ目の銀行ではもう少しましでした。とても親切な中年の日本人が親身になってくれて、その銀行で口座を開くには何が必要かをとても辛抱強く説明してくれました。そして、その人は、努力はしますが約束はできませんと私に言ったのですが、後にその用心深さが正しかったことが分りました。1年のビザがある私の外国パスポートでは不十分でした。居住地の地方自治体の登録証明証を取得する必要がありました。その登録証明書の手続きには約1ヶ月かかるので、私が実際に登録手続きを行っていることを証明する書類が必要になります。その上、銀行口座を開設できるのは1年以上の期間なので、その親切な人は、私がすでに帰りの航空券を持っていて、半年後にはモスクワに帰国するということまで話さない方がいいとアドバイスしてくれました。私の日本語会話力はまだ足りないところがあるので、この説明にはかなり時間を要しました。たとえば、レジストレーションは「ガイコクジン トウロク ショウメイショ(外国人登録証明書)」といい、一時的にその代わりとなる書類を「トウロク ゲンピョウ キサイ ジコウ ショウメイショ(登録原票記載事項証明書)」というそうで、私にその名前を別々の紙にメモしてくれました。

その日は、私は区役所で1時間半ほどを費やしました。そこのお役人は十分に親切でした。でも、私を担当した女の人は、私の数字の書き方が気に入らなかったようです。日本人のアラビア数字の書き方の特徴は知っていましたが、表面的にはロシア語との書き方の相違はたいしたものではなさそうでしたので、気にしなくても大丈夫かと思っていました。ところが、ロシア語のシッポ付きの小数点は、日本語ではシッポのないピリオドなのです。その人はこの数字は何と書いてあるのですかと聞きましたが、顔はいぶかしげでした。登録手続きが始まり、少しばかりの料金で1時間もかかって私の一時的に登録証明の代わりとなる書類を作ってくれました。銀行は19時まで仕事はしていますが受付けは早く終わってしまうので、その日はもう間に合いませんでした。

次の日、私は得意げに銀行に行き、顔見知りの行員の手が空くまで待ちました。彼はいそいそと私の係りをしてくれました。私は長い住所を漢字できちんと書きながら一生懸命書類と格闘し、力を振り絞って数字を日本式に書くよう努力しました。ついでに、私が昭和何年生まれかということが判明しました。すべての書類に記入し終わり、満足げな笑みで顔をほころばせる準備ができたとき、行員は印鑑を押すように言いました。もちろん、私は印鑑は持っていませんでした…。日本人は誰でも印鑑を持っていて、印鑑がないとどんな用も済まないのです。印鑑なしにその銀行で口座を開くことはできませんでした。その日は37度の暑さでした。私はどこか印鑑を注文できるところをさがして、デザインを決めて、それが出来上がるまで2日ほど待たなければならなくなりました。

不運に打ちのめされて、私は泣きそうになりました。私の係りの人は私を見捨てずに、どこか別の銀行に電話をかけ始めました。それから私に、近くに日本で一番大きな銀行があって、そこでは同じ書類を提示すれば印鑑が無くてもサインがあれば口座を開設することができると説明してくれました。それから30分、ついにその銀行で口座を開設することができました。

3度目、こんなに親切にしてくれた日本人にお礼を言い、ちょっとした贈り物をしたいと思って会いに行ったのですが、もちろん顧客から何かをもらうことは硬く禁じられていましたので、本当に心を込めたお辞儀と口頭によるお礼にとどめておかざるを得ませんでした。

制度の厳格さと、それがきちんと整備されていることと、その絶対的遵守には敬意を覚えました。暑さのため街をあちこちするのはものすごく大変でしたが、人々と交流し、日本のやり方に触れることができましたので、私はこんなことがなければよかったのにとは思っていません。



私は京都に住んでいますが、今はものすごく暑いので、まだ、京都から外に出ていません。京都はかなり大きな都市で、人口146万人、610Kuです。それにもかかわらず、一歩歩く毎に自然に出会います。日本の子供たちが境内の庭(ロシアであればこれを庭とは呼ばないでしょう。全部で植木7-8本なのに「何々の庭」という札がかかっているのです)で蝉を取ったり、男の子たちが川でザリガニをとったりしています。それから日本のテレビでは、素晴らしいことに、列島各地の生き物の世界に関する番組をたくさん放送しています。

私が出会った最初の虫はゴキブリでした。日本語では「ゴキブリ」です。ロシアの3倍くらいの大きさがあり、しかも飛びます。どの古い家にも住んでいますし(ちょうど、私は古い家に住んでいます)、屋外にもいます。でも、外で見られるのは、もちろん、夜か夕方遅くです。どこのスーパーマーケットでも一般的な殺虫剤、特にゴキブリ用殺虫剤は必ず売っています。

私は、正直のところ、虫が恐いのですが、どうも日本人は平気のようです。たとえば、先日、パン屋でキイチゴの飾りのついた緑色の小さなパンを買ったのですが、「ムシ」(虫)という名前のパンでした。

ある日、朝7時に家から出ると、そとはものすごい騒音でした。しばらくの間、これは道路の騒音かと思いましたが、すぐに、道路から離れても騒音はますます大きくなることに気付きました。通りがかった日本人に、これは蝉の鳴き声ですかと尋ね、確かに、これが蝉だということがわかりました。すごい数の蝉だということが。子供たちは虫取り網で取って、虫かごに入れています。日本の猫もときどき蝉狩をして、魚がなければ食べることもあります。この運の悪い蝉を一匹写真に撮りました。この蝉を取ったのは東寺(8世紀末建立;後に空海(774-835)のおかげで真言仏教の中心となる。)の境内に住むやせこけたトラ猫です。

ロシア国内にも非常に多くの蝉の種・亜種が生息していますし、私も、そして他の多くの人もそうだと思うのですが、蝉は日本を連想させます。実際、私は初めてこの虫をまさにここ日本で見ました。

蝉は様々な種類があって、幼虫の形で3年から17年を地中で過ごします。蝉の姿になってからは1ヶ月ほどです。雄には下腹部に特殊な弁があって、これを使ってものすごく大きな声で鳴きます。以前は雌は鳴かないと思われていましたが、雌も鳴くことがわかりました。ただ、人間の耳にはよく聞こえないのですが、雄にはとても良く聞こえるようです。食べ物は樹液です。

これが蝉の鳴き声だとわかるのにしばらく時間がかかりましたが、日本人にはその鳴き声の様々なニュアンスが識別できます。日本人の知人と桂川沿いを散歩したとき、彼女は、蝉の「声」が高くなって、鳥の声を思わせる夕方の鳴き声の方が好きだと話していました。日本人には蝉ははかない存在のシンボルであり、詩や文学や造形上の広く行きわたっているイメージです。手元に本がないので、もし間違えていなければ、A.N.Meshcheryakovの「日本の象徴的なものについての本」に日本文化のコンテキストにおける蝉についての章があります。

また、私は正式名称を華厳寺というお寺に行ったのですが、そのお寺は非公式には「スズムシデラ」、つまり鈴虫寺と言います。この寺は「臨済宗」の禅寺で、1723年に開山されました。私がこのお寺のとりこになったのはこの名前のためです。言い伝えでは、ある住職が鈴虫の鳴き声を聞いて覚りに達したということです。ついでながら、普通は秋に鳴く鈴虫ですが、この鈴虫寺では一年中聞くことができると言われています。




道と路地


京都の通りと歩道はとても幅が狭く、例外は市の中心部の通りだけです。路地、辻子、四つ辻が文字通りいたるところにあります。知合いのアドバイスに従って、かなりすぐに自転車を入手しました。信号や渋滞が多いので、自転車で移動するほうが便利で、速く、その上ずっと安上がりです。自転車の他、もちろんバイクも普及しています。そのいずれの交通手段にも年齢制限はありません:颯爽としたお婆さんのヘルメット姿も珍しくありませんし、自転車に子供用シートがついていることもよくありますし、お母さん(平日)やお父さん(日曜日)が一度に2人の子供を乗せていたりもします(日本の平均的家庭では子供2人が一番多いです)。

私は自転車に乗ることができますが、ここの道に慣れるまでに1ヶ月ほどかかりました。車が多いことには、ここでは自転車を先に通してくれますし、交差点ではかならず少しブレーキをかけるので、真っ先に慣れました。でも、最初はとても難しかったです。あまりにも狭い歩道と車線、あまりにも多い交通量、そしてそこに歩行者も自転車も、買い物をしたり必要に応じて休憩したりする幼児の歩行器のような自力歩行器につかまったお年寄りのお婆さんもいます。その上、隅から飛び出す人があるかもしれないと常に用心していなければなりません。でも、なんといっても、私の移動のリズムとやり方がここでは完全に場違いでした。日本人は自転車に乗るとき、体も筋肉も力を抜いて、最小限の力しか出しません。動作は滑らかで、急がず、急発進したり急ブレーキしたりする人はいません。誰もが、特に努力もしないでも、道に一人でいるのではないということがわかっています。私の急な動きや追越し好きはここでは当惑したような、非難めいた(きわめて当然ではありますが)視線を集めます。しかし、日本式に、つまり、からだを緊張させずに、ここのリズムに合わせることがすっかり楽になったように堂々と自転車に乗ってみる価値はありました。

人との交流が足りないと思って入れてもらった合気道の稽古でも、似たような苦労にぶつかりました。日本人の初心者は皆、私より速く習得します。動きがより正確で、しかも綿密に調べられた正確さであるという同じ理由でです。合気道の稽古で私より下手なのはアメリカ人一人だけで、私のように広大な土地の代表者です。この日本的な動きの正確さは、茶の湯でも、お寺の法要でも、相撲でも、合気道でも、普通の日常生活でもどこででも見られます。

私は知合いのモスクワのカーマニアが京都の道にいることを想像しようと努力しましたが、思わず苦笑いしました。彼らがクラクションをブーブー鳴らしたり、追越しをしたり、予想外のことをしでかすことは、ここではまったく想像できません。ここでは、車の流れは亀の歩みのようですが、運転手がクラクションを鳴らすのを聞くことはほとんどありません。歩行者も極めて分別があり、おとなしくて、普通、自転車が楽に追い越せるように端を歩いています。歩道が狭いときは、自転車のベルを鳴らすか「すみません!」と叫ぶだけでいいのです。

狭い路路は特に魅力あるものがいっぱいです:ここには泥棒避けに考えられた密な格子戸や、お供え物のある祠や(この祠の多くは子供の守護者であるお地蔵様のためのものです)、思いがけず雨後の竹の子のようにあちらこちらに現れる神社や、見せかけの袋小路(袋小路は行ってみるとだめ、行ってみないと通り抜けられたりします)、そして安くて、感じがよくて、美味しく食べられるだけでなく、何かちょっとしたおまけをくれるたくさんの食べ物屋さんがあります。おまけの一つは墨絵の観音の小さな巻物で、それは今、私の部屋の壁にかかっています。


神社

地蔵



神様の食べ物・人間の食べ物


最古の神社下鴨神社(京都)の見所の一つであるオオイドノ(大炊殿)は、カミ様のお供えを調理する社殿です。下鴨神社の境内にはこのような場所がすでに平安時代に存在していましたが(この時代の社殿図が残存しています)、現在のオオイドノは1624年に再建されました。祭事のときは今もここで神饌を調理しますが、いつもは博物館になっています。そこには特別に長い箸(神饌をけがすことのないように)、驚くほど美しい三方、折敷、平瓮などの数多くの神具、魚、カニ、エビ、米などのカミに供される食べ物の模型がありますが、どれも見ると感嘆のため息を抑えることができません。

また、それに負けないほど、日本人は日常生活でも食べ物に一喜一憂しています。どの日本人も気を使って必ず「和食はどうですか」と聞き、そして、誉め言葉を聞くと極めて満足げです。ですから、日本料理はすばらしく美味しくて、健康的で、いつも目を喜ばせてくれると誉めないわけにはいきません。普段、日本食は非常に美しく料理されますが、ここ数週間の間に体験したある高級日本料理店での夕食は最高に印象的でした。日本人のこの分野における名人芸たるや驚くべきものです。汁用の匙には、優雅な木製の手のついた美しい貝殻のものもあります。そうかと思うと、テーブルに麺と野菜ときのこと鶏肉とその他何かわからないものが入ったスープが煮えたぎっているのを想像して見て下さい。麺がほぼできあがったころ、生きたシマエビとトングの入った特製の塗りの器が運ばれて来ます。日本人がきわめて平静にそのエビを煮えたぎったスープに入れると、エビの色は緑がかった縞模様から紅白ピンク色にみるみる変わります。さらに、刺身というのは生魚の薄く切ったものに野菜のツマを添えたもので、氷の上に並べて供されます。などなど、きりがありませんが、このように多種多様ある豪華料理を全部食べてみようとするのはとても無理なことでしょう。

実際、日本人自身がこの食べ物崇拝を自嘲することもあります。有名な映画監督の北野武(日本ではお笑い番組の司会としても有名)が司会している番組は、問題に正解すると、思いもよらない高価なご馳走にちょっと舌鼓を打つことができるというもの。質問に答えられなかった回答者は、よだれを呑み込んで、勝利者の饗宴を見守るばかりです。

冗談はさておき、日本式の食事で寿命を延ばすことはいとも簡単なことですので、この観点からは日本人の食べ物に対する過度の熱意もこっけいではないのかもしれません。


和食

鮎料理



雲の出会い


日本では、観光に必要な、ツーリストインフォメーションセンターのネットワークや、素晴らしい地方の博物館や、有名社寺にはどこでもある詳しいパンフレットや、整備されたインフラや、それから肝心の古さ、しかも丁寧に保存された古さが、すべてが整っています。

というわけで、出雲に出かけました。出雲とは神話の中で出会う古い名前です。現在は、本州の南西部、日本海に沿ってのびる島根県です。島根県は、日本としては比較的人口密度の高くない、かなり広々とした土地です(島根は112.8人/km2、日本全体では337.3人/km2)。この地方にはすでに縄文(紀元前13000年−紀元前3世紀)・弥生時代(紀元前3世紀−3世紀)に人が定住し、古墳時代(4−7世紀、この時代の最大の特色は氏族階級の墳墓の築造)には出雲は初期日本国家大和の為政者と肩を並べる日本列島最大の文化的中心地となっています。

現在、人々が出雲へ行くのは、何よりも、日本全体の神道の聖地であり、大社造りと呼ばれる日本最古の建築様式で建てられた出雲大社を訪れるためです。この神社は小さな海沿いの大社町にあり、その町の名前は文字通り「大きな/偉大な(神道の)社」という意味です。現在の出雲大社の宮司は、この社に祭られているオオクニヌシノカミに1000年をはるかに超えて奉仕してきた氏族の83代目にあたります。一年に一度全国の神々が出雲大社に集まり、その会合が一週間続く間、出雲大社を除くすべての神社から神がいなくなります。

出雲大社の後、日本100景の一つ、ヒノミサキ(日御碕、日本海沿岸沿い)に向かいました。岩や小島の入りくんだ複雑な海岸線、見るとめまいがし心臓が止まりそうになる怒涛の荒れ狂う海の波、この風景に沿って心細げに道が敷かれて、ところどころに腰掛けがあり、おそらく一つ一つの石が島と呼ばれ、それぞれが名前を持っているのでしょう。浜辺から遠からぬところに1644年、徳川家光(1604−51年)の命によって造営された日御碕神社があります。そこには天皇家の始祖、アマテラスオオミカミとその弟の嵐と風の神、スサノオノミコトが祭られています。この神社の一隅に「この砂岩片はお守りになります。どうぞ、ご遠慮なくお持ち下さい。」という掲示をみつけました。この申し出に感激して、遠慮せず、数片が私のポケットにおさまりました。

その後、出雲市と松江市に行き、ここでは数え違いするほどたくさんの古墳や、17世紀初頭の中世の城や、伝統的な出雲の屋敷や庭園や有名な茶人千利休(1520-91)によって建てられた茶室を復元した博物館等いろいろ見ました。とうとう出発までにあまり時間がなく、もうそれほどたくさんは見られないということがわかりました。徒歩旅行者にはここの距離は大きすぎます。

どうしたものか少し悩んで、地図で見るとバス停から片道3kmを往復歩かなければならない町へ行くことに決めました。古代出雲国分寺跡(8世紀造営)と出雲国庁跡(17世紀末−平安中期、794-1185)を訪れることが目的でした。実は、私の研究の主なテーマは8世紀の地方行政ですので、その現場に行ってみたいという思いは何より勝っていますし、一番魅力的な選択肢だろうと思いました。

そして、「馬無し」、時間無しの私が、コウトク(康徳)さんのおかげで、思っていた以上のものを見ることができました。

私たちは、周囲に水田と熟れた実をつけた柿ノ木のひろがる田舎道で出会いました。向こうから自転車に乗ってくる人を見て、国庁へはこの道でいいかどうか確かめようと思いました。この水田の中で発掘跡をうっかり通り過ぎても無理からぬことでした。そしてコウトクさんは案内を買って出てくれました。道中、話をしました。コウトクさんが1943年満州で生まれたことがわかりました。コウトクというのは、日本の軍国主義者によって1932年に建設され1945年の終戦まで存在した傀儡国家満州国の当時の元号の日本語読みです。満州国同化策の一つに日本人家族の移民がありました。コウトクさんの両親は軍の仕事とは何の関係もありませんでしたが、日本の国の決定で7人の子供と満州に渡りました。その地で8番目の子であるコウトクさんが生まれました。日本には1945年に6人の子供を連れて帰国、2人は異郷で亡くなっています。

国分寺も国庁も発掘作業はだいぶ以前に終了していますが、発掘跡は水田に戻さず、大切に守られています。記念石にはこれが何の場所かということが詳しく書かれ、国分寺と国庁の復元図がありました。国庁から遠からぬところに発掘跡が続いており、そこには工房、特にうるし工房(うるしがしみ込んでいたおかげで保存された判読不能の文字の書かれた紙の断片が発掘されています。)もありました。

コウトクさんは素晴らしい案内人でした。若い時に国庁発掘作業に参加し、この土地の歴史について本を読み、細部まで知り尽くしていました。私が時間に制限があるのを知って、周辺を案内してから、家に寄って車で町まで送ってあげようと申し出てくれました。断わることなどできません。

こうして島根県で一番大きな古墳を見て、銅鐸(銅の鐘)や埴輪(古墳の斜面に置かれていた粘土製彫像)や銅鏡が収集され、最も古い日本の碑銘−6世紀末の漢字銘の入った剣が保存されている博物館にも行きました。また、この地で最も重要な神社であるカモスジンジャ(神魂神社)にも行きました。この神社の本殿は日本で最も古い「大社造り」の建造物です。神社は丘の上にあり、日本の国を産んだ女神イザナミノミコトと男神イザナギノミコトをともに祭っています。

それから先は、私の京都の知人の言葉によると、まったくあり得ないことが起こりました。

私たちがまだ周辺を歩いていると、コウトクさんの奥さんが夫を捜して電話をしてきました。コウトクさんはお客さんを連れて行くよと答えていました。いやいや、とても良い人だからと奥さんに言いました。そういうわけで、床の間と、コウトクさんの5人の孫を含む大家族が集まるお祝いの日に使う茶の湯の道具のある伝統的な日本の家におじゃましました。低い日本式のテーブルがあり、そこでお茶やコーヒーを飲ませてもらったり、庭になっている柿をご馳走してもらったりしました。お別れにコウトクさんは、ずっと以前にボランティアで国庁発掘作業に参加したときから家に大事にしまっておいた8世紀の陶器の模型を一対、私にくれました。コウトクさんの奥さんもまったくロシア風に私に道中のせんべいやお菓子を用意してくれました。


(原文はロシア語)