若手研究者等フェローシップ(2005)

パーヴェル・クレストフ
2005-2006年
(ロシア語より仮訳)

研究滞在記


私にとって未知の日本の植生をよりリアルに紹介するため、フィールドへ出る機会をできるだけ利用するよう心がけています。

若い日本人研究者の研究テーマが非常に多種多様で、共通の研究テーマがあり、同じ植生を国境の双方から研究していて、将来、共同研究を行うことが可能だということはとても嬉しいことです。

この前の日曜日、半日、明治神宮へ抜け出しました。今回は初めて御社殿にも入り、人目につかない小道まで通り抜けました。御苑にも入りました。明治神宮の来歴は苦境から見事に抜け出す人間にも似た、素晴らしものです。1958年の神宮復興の際、御苑の復興には有名な日本の植物学者で、私の研究仲間の先生にあたる宮脇昭教授が携わったことがわかり、嬉しく思っています。1958年に植樹された森は、今では原生林・自然林の特徴すら多く有しています。御苑を散歩しながら、私は人間の手の痕跡を見つけようと努力しましたが、無駄でした。植樹の際に、成長して巨大都市の真中に巨木と木陰と鳥や蝉の声が混在する、おとぎ話の森と見まがうような森を形成するように、樹木が取り揃えられました。多くの植物学者にとって、また、私自身にとっても、この森が人工林であるということは大発見にあたります。

ロシアを出発してからは、これまでロシアの研究所で果たしてきた組織・管理上の責務から開放され、もっぱら学術研究に集中できる貴重な機会を得て、現在、日本での研究を楽しんでいます。ロシアでは入手できない多くの資料を自由に利用することができますし、かつて国際学会での面談では時間も分刻みに制限されていた日本の研究仲間と交流する機会を持つこともできます。以前は本で読むだけだった日本文化を、初めて、内側から感じることのできる機会も得ました。私が今、毎朝、今にも咲き出しそうな椿のつぼみを見て、夕方、蝉の鳴き声を耳にしていることに比べたら、困った点といっても、何ほどのものでもありません。実際、日本では私には言葉の問題がありますが、コミュニケーションの問題ではありません。2000年の夏に一週間、私は滞在していた須坂から研究会が行われていた長野まで、毎日、一人で電車で通ったことがあります。その土地の人は誰も英語を話しませんでしたが、「何をどうすればいいか説明する」方法を何とか見つけ出してくれ、一度も間違った切符を買いませんでしたし、間違った電車に乗ることもありませんでした。今回の来日でも、ときどき最初の経験を思い出すことがありましたが、積極的に状況に対処しようと努めました。どんなときでも自分に「何が必要か説明する」ことができるように(切符を買うときに、特に役立ちます)、いつでもメモとペンを持っていました。また、いつもひらがなとカタカナのカードを持ち歩いていますが、それは、会社名の書かれた看板を読んで、もっと言葉を覚えるためです。日常会話に必要な表現を習得しようと努力していますが、これはいつでもどこでも可能です。最近の収穫としては、大学の食堂で:SAMMA O NEGA I SIMAS(食堂の皆さん、ありがとう)、大学で:O KHAIRI KUDASAY(研究室の皆さん、ありがとう)、外国人登録の区役所で:WATASI WA KRESTOV DES、友人から:HISA SIBURE DES NE, MO I PAI IKAGA DES KA等々があります。

日露青年交流センターには、日本での研究の機会を与えていただき、また、来日に関して連絡を取り合ったときからの親切な対応にとても感謝しています。