若手研究者等フェローシップ(2005)

山本健三
2005年11月

このたび小渕フェローに採用され、2005年10月より、創立250周年を迎えたモスクワ大学哲学部政治学科の社会政治思想史講座(以下、ISPUと略記)に籍を置いて勉強しています。モスクワ大学哲学部はソ連時代においてマルクス・レーニン主義の研究教育の牙城であったわけですが、このISPUはとりわけロシア・ナロードニキ思想、空想的社会主義の研究がさかんであったところです。しかし1990年、哲学部の組織改編で哲学科・政治学科・宗教学科の三学科編成になったのを機に、イデオロギーから自由な、ロシアおよび西欧の社会思想・政治思想の研究教育を担う専門講座として確立されたと聞きます。現在は教授4名、助教授5名、上級講師1名、助手1名、上級研究員1名、研究員2名という陣容で、活発な研究教育が行われています。ISPUにおける私の指導教官はアレクサンドル・シリニャンツ教授です。同教授はナロードニキ研究者として出発し、20世紀初頭のロシア・インテリゲンツィア論で博士号を取得した、近代ロシア思想全般に通じた研究者である一方で、人に影響を及ぼすことの好きな、面倒見のいい教育者でもあります。


近年のISPUは、研究成果の出版活動に力を入れており、研究書、学位論文、学生向けの教材の出版を活発に行っています。その代表的なものが、シリニャンツ氏を発起人として始まった「ロシア社会・政治思想」シリーズの刊行です。その一部は日本の大学図書館にも納められているので、ご覧になった方もあるかもしれません。1995年、19世紀ロシアの思想家K・N・レオンチェフに関する入門的な論文とレオンチェフの著作の抜粋をセットにした学生向け入門書を皮切りに刊行が続けられた結果、2005年11月現在でシリーズは10冊を数えます。2001年と2002年にロシア作家協会、ロシア文学財団、雑誌『ロシアの新刊』から表彰を受けるなど、高い社会的評価も受けています。これまでに扱われた思想家あるいはテーマは、L.A.チホミーロフ、V.A.ザイツェフ、N.M.カラムジン、イヴァン雷帝、P.A.クロポトキン、君主制国家論、ロマノフ王朝初期の国家体制、11〜17世紀のロシア政治思想と、多岐にわたります。このシリーズは「19世紀から20世紀初頭」の思想を扱う前提で始まったものですが、いつの間にかこの枠は撤廃され、最新刊では「10世紀から20世紀初頭」と銘打たれています。これは現在のロシアにおける社会思想・政治思想の研究教育における関心の拡大の表れであるとともに、近代以前のロシア思想をも含めた大きなパースペクティヴに対する必要性の表れであるといえるでしょう。


さて、こうした環境において私がモスクワで何をしているかといえば、19世紀後半のロシア帝国におけるポーランド人問題やバルト・ドイツ人問題、そしてハプスブルク帝国とオスマン・トルコ帝国にまたがるスラヴ問題に関する思想家や政治的エリートの言説を調査しています。これらの問題は今日、ロシア帝国を研究する外国の研究者においてのみならず、ロシア国内の研究者においてもアクチュアルな問題と捉えられているようです。ISPUにおいても、これらの問題群に関心をもつ研究者や学生が少なくなくありません。現に近年にはこれらの問題について活発に発言したM.N.カトコーフやF.I.チュッチェフに関する学位論文が発表されただけでなく、先のシリニャンツ教授も、バルト・ドイツ人問題とI.S.アクサーコフとの関係についての論文を発表しています。


これらの業績に啓発される一方で、図書館やアーカイヴに通って、ひたすら研究文献と一次史料を読みながらノートをとるのがモスクワでの日常です。一次史料には文字通りの手稿も含まれるので、読み進むだけでもうんざりする作業です。またパソコンで書くことに慣れきった私には肉体的疲労感も伴います。しかし、しばしば大小の発見があるのも確かで、なかなか充実感のある作業でもあります。遠からぬ将来に書かれるはずの博士論文になんとかつながらないかと祈りながら、ノートをとり続けています。


こうした研究の場のひとつになっているロシア国立図書館(通称レーニン図書館)における大きな変化について触れておきます。私が通い始めた10月の半ばから、電子データ化された同図書館の所蔵する資料の一部を館内の端末で閲覧することが可能になりました。とくに私にとって重要なのは、ロシア全国で提出された最新の学位論文(カンディダートおよび博士)がPDFファイル化され、その場で読めるようになったことです。いまのところ、2003年から2005年にかけての学位論文はほぼすべて読むことができるようです。学位論文はロシアの最新の研究動向、一次史料の情報を得るための最良の資料です。基本的に学位論文を読むには、地下鉄とバスを乗り継いでモスクワ中心部から遠く離れたレーニン図書館学位論文部に行く必要があるので、一部とはいえ、アクセスしやすくなったのはまことに歓迎すべきことです。


華やかな街並みや数年前とは比較にならないほどに豊かになった消費生活から、BRICs(ブラジル・ロシア・インド・中国)と称される経済成長国の勢いを感じるのは確かですが、この国が多くの問題と矛盾を抱え込んだままであることに変わりありません。ロシアがどこに向かっているのか、しかと見届けたいと思います。