若手研究者等フェローシップ(2004)

滞在記

岩花 剛

モスクワ大学地質学部(地学部)には、凍土学を中心とした教育・研究が行われている地球雪氷学科があります。これまで東シベリアの永久凍土を対象に研究を進めてきた私は、現在ここに研修員として籍を置き、研究活動に従事しています。本滞在記では、モスクワでの生活やモスクワ大の研究者たちとの交流、野外調査で訪れたシベリアなどの様子になどを紹介したいと思います。研究内容については後のほうに"凍土学事情"として記しましたので、興味のある方は眺めてみてください。



モスクワ大学にて

はじめの一ヶ月は様々な手続き作業に時間の大半が費やされてしまいます。入寮の手続きから、研修員登録、外国人登録、図書室使用登録などなど、それぞれの手続きを事務の怖いおばさん達におこられながら進めて行きます。それぞれの部署でサインひとつもらうためだけでも必ず行列ができており、なかなか目的が達成できない日が続きます。日本の慌しい時間感覚が抜けない私もこの一ヶ月ですっかりロシア時間に順応させられてしまいました。ちょうど大学の後半学業期の開始時にあわせて訪露しましたが、1−2ヶ月は早めに来て事務手続きと順応を済ませるべきでした。

クドリャフツェフ記念凍土学教室

地質学部および地理学部・数学部は、とんがったスターリン様式の一番目立つ校舎にあります。宿舎棟もこの校舎に隣接しています。

生活に必要な食堂や売店、コインランドリー、レンタルビデオ、金物修理から証明写真屋まで揃っており、わざわざ町に出なくても不自由はありません。私が滞在したE棟には各国から留学生や在外研修員、企業から派遣された語学研修生などが多く住んでおり、一見無秩序な状態ですが、各階に配置された管理係のおばさん達のおかげである程度平穏な暮らしが実現しています。このおばさん達には内緒で、様々な学生ビジネスも盛んです。中国人留学生たちが経営する食堂があり、モスクワ大の頭脳の中心、数学部の学生が興した無許可インターネット接続会社(最近公認になった模様)にお願いすると建物の外側を窓から窓へとケーブルを這わせてLANケーブルを自分の部屋まで引いてきてくれます。マフィアの子弟も住んでいるから気をつけろとささやかれたりもしますが、もちろん何かトラブルがあったという話は聞いたことがありません。



研究の状況

9月から12月、2月から5月がそれぞれロシアにおける前期と後期の学期に当たります。私はこの後期の初めからモスクワでの滞在をはじめ、凍土学に関する重要な授業やセミナーに参加したり、専門家のアドバイスを受けたりしながら研究を進めています。永久凍土地帯が国土の約65%を占めるロシアには多大な凍土関連の研究成果を有し、世界で最も多く凍土関連の学者やエンジニアが活躍しています。

地球雪氷学科にて/
背景の地図のうち青い部分が永久凍土地帯

ソビエト時代、凍土の研究は国土の開発そのものであり、研究成果は秘密にされることもありました。そのためか、私が日本のような小さくて暖かい国からわざわざ凍土の研究にやってきた理由がこちらの研究者には理解されませんでした。陽気でフレンドリーな人もたくさんいますが、はじめのうち、私を何かのスパイではなかろうかと訝しげに警戒してくる人もいました。接する時間が多くなるに従い誤解も解けてきたようです。

飲み会などで一緒にウォッカを飲み、たくさん話をすることが一番です。ロシアでは乾杯の前に誰かが挨拶をして一気に飲み干しますが、特にこのトーストと呼ばれる乾杯の前口上がロシア人との付き合いや文化交流にとって重要な役割を果たします。この時、会場の皆が一人に注目し、どんなすばらしい言葉を口にしてくれるのだろう?と期待の眼差しを送ってくるのです。ロシア人のトーストはやはりレベルが高く、詩のように簡潔で美しい言葉の中に哲学的でユーモアに富んだものが自然に口から流れてきます。人前での挨拶が苦手な私にも当然順番が回ってきます。このトーストを何とか成功させると俄然宴は盛り上がり、今まで警戒して話してきてくれなかった人までにこやかに話しかけてきてくれました。ロシアには一般的に言われるような豪快な人もいる反面、シャイで警戒心の強い人も多いようです。もちろん宴の席でなくてもこちらから積極的に質問 に行ったり、協力を求めたりすると、どの人も気持ちよく応えてくれます。

地球雪氷学科の教授陣は50歳代以上の年配の先生方が多く、それぞれソビエト時代の国土開発期に凍土学を学びソビエト連邦各地の凍土地帯で現地調査や土地開発に携わってきた人ばかりです。これまで見たことのない地下氷の写真を見せてくれたり、様々な野外調査中のエピソードを面白おかしく語ってくれたりします。中堅世代が少ないのはやはり80年代後半からの財政難のせいで、多くの優秀な研究者がビジネス関係に職を求めたからだそうです。この傾向は科学教育にまで予算が回ってこない現在も続いており、多くの貴重な研究成果の継承とその発展が途絶えてしまうと悲しそうにつぶやく先生もいます。一方、空前の石油・天然ガス景気と同時に凍土地域開発のための研究も活性化の兆しが見られ、若い研究者の数も徐々に増えつつあります。火星探査などの宇宙の雪氷研究のブームを追い風に次世代の研究を盛り上げていってほしいものです。



ヤクーチアでの野外調査

野外調査の開始

地図を片手に札幌から北北西のレナ川中流域に目をやるとたいていの地図にヤクーツク市が載っているはずです。私は大学の活動が停止する夏の間、このサハ共和国(ヤクーチア)・ヤクーツク市の近郊で野外調査を行ってきました。サハ共和国は人口約110万、アジア系のサハ(ヤクート)人が多く住む共和国です。ヤクーツク周辺の地下には深度500mにも及ぶ永久凍土が存在しています。冬は気温がマイナス50℃近くまで下がることのあるいかにも寒そうな所ですが、7月にはプラスの40℃近くまで上がる暑い場所でもあります。我々日露共同研究チームはタイガの中に調査サイトを設け、凍土や植生の状態と地表面での熱や水蒸気、二酸化炭素、メタンなどの出入りを観測しています。調査地は、ランドクルーザーやパジェロでは走破できないほどグジャグジャの道を車体の軽いロシアンジープの中でミキサーされながら2-3時間走ったところにあります。住処は丸太を台形に組んで泥で塗り固めたサハ人の伝統的住居バラガンです。水環境以外は非常に快適な観測サイトです。夏の間に地面は地表面から約1.5m程度しか融けないため、穴を掘ればすぐに凍土が出てきて天然の冷蔵庫となり、食糧を保存することができます。

現場での仕事は、様々な気象観測の合間に造林学の研究者と木の本数を数えたり、ボーリングマシーンで凍土に数mの穴を開けサンプルを採ったり、スコップで永久凍土面まで掘り下げて土壌の観察をしたりすることです。このような力仕事で得たデータを解析して研究を発表していきます。長期間の野外での共同生活のためトラブルやハプニングは絶えませんが、ロシア語・英語・サハ語・日本語を飛び交わせながらにぎやかに過ごしています。ここでは、非常に乾燥する年以外は毎夏、蚊とアブと糠蚊が順を追って大量に発生します。サハの研究者たちは勇猛に半袖で過ごしていますが、日本人研究者は灼熱の太陽の下、防虫ネットで頭を覆い、赤や黄色のゴアテックス雨具を装着してひとりサウナ状態で歩き回っているため"宇宙飛行士"と呼ばれています。



炎天下での調査風景

永久凍土が融解してできた沼で水浴




モスクワの印象

これまで何度も野外調査のために東シベリアのヤクーツク市近郊に滞在し、ロシアという国に対する異国観が少ない私にとっても、モスクワはテロで危ないという印象を持っていました。実際ここ数年の間でも、ゲリラによるホテルや地下鉄、アパートの爆破、コンサート会場での立てこもりなど、日本では恐ろしいニュースばかりが流れてきていました。はじめのうち、地下鉄に乗ると大きな荷物を持った人がみな自爆テロ犯に見え、怪しそうな人がいたらすぐに逃げられるように目を光らせていましたが、今では面倒になり、無駄に神経をすり減らすこともなく平然と地下鉄を使っています。ロシア人にとっては、しょっちゅう地震が起こり、地下鉄でサリンを撒くような宗教団体がある日本の方がよっぽど危ないと思っているようです。モスクワに実際に生活してみると、非常に住みやすく、また危険を感じることはありません。

私がロシア人について気に入っている点は、会話や議論好きな人が多いところです。議論好きのロシア人ゆえ、文法の難しいロシア語を正確に話す人や論理的に美しく話せる人が尊敬されているようです。乗り合いバスや地下鉄の車内でどんなおとなしそうな人でも、いざ何かの弾みで会話が始まると大きな声で話し合い、周りの人が議論や口げんかに参加してくることもあります。普段の生活でも、遠慮しておとなしく黙っていると何もよいことがありません。説得力をもって大きな声で素早く自分のことを主張することが何よりも大切な社会だと思います。私はこの主張合戦に敗北するたびにロシア語が上達し、もっとうまくなりたいと思うのです。



最後に

若手研究者派遣事業によって大変貴重な体験と交流をさせていただきました。ここに感謝の意を表したいと思います。ロシアと日本の間にはまだまだもの考え方と言葉に大きな壁がありますが、この違いを楽しんで付き合っていける人が増え、より内容の深い共同作業が今後可能になると確信しております。ロシアという遠い隣国と協力して様々な地球規模の問題の解決に取り組んでいかなければならなくなる時代はすでに来ているのです。



付録。凍土学事情

私が永久凍土の研究をはじめた8年ほど前は、漢字では一目瞭然の"エイキュウトウド"という単語を知っている人に出会うことは研究者以外ではほとんどありませんでした。言葉の説明をして、そんなものが地球上に存在するんだぁ、変わった研究者もいるものだ、といった感じで初対面の人との会話が終わっていたように思います。ところが最近は、どんな研究をしているのかと聴かれて永久凍土です答えても、すでにその言葉を知っている人が増えてきたように思います。近年の地球温暖化に関連した報道で永久凍土の融解が取り上げられたり、名古屋万博で話題になったマンモスとの関連でシベリア・永久凍土が紹介されたりして知名度が上がったのかも知れません。

永久凍土とは、連続して2年以上0℃以下の状態にあるすべての地中の物質として定義されています。しかし、永久凍土は文字通り永久に凍結しているわけではなく、われわれの一生をはるかに超える、地球の一生からみた時間規模では何度となく融けたり凍ったりを繰り返してきました。正確には多年凍土・季節凍土といって凍結期間の違いで凍土を区別しています。われわれの時間感覚にとっては永久に凍結した地面に感じるため、永久凍土という言葉が使われているわけです。したがって"永久凍土が融解する"という表現も論理的には奇妙でありますが、普通なら凍結したままの土地が人為的な地球温暖化の結果として融けてしまうという現象を扇動的に問題提起するためには非常に効果的な表現だと言えます。

それでは、どうして永久凍土が融けることが問題なのかを簡単に説明しておきたいと思います。第一に、凍土の中に閉じ込められている物質が動き出すことです。気体や液体の状態では地球上を動き回って循環している水分が凍土の中では固体としてその場にとどまっています。同時に炭酸ガスやメタンガスなどの温暖効果ガスも閉じ込められているのですが、それが凍土の融解と共に大気中に放出されてしまうということになります。第二に、現在森林で覆われている北方帯が湿地や草地に変わってしまい、生態系に大きな変化が起こり得ることです。永久凍土と森林植生が共存する地域の多くが半砂漠もしくはステップ地域に匹敵するほど乾燥した気候条件下にあります。永久凍土層はほとんど水を透さないため、森林に必要な水分が地表層に効率的に蓄えられることになります。一方、森林植生層は大気層との熱のやり取りを小さくして凍土状態が変化しにくくする布団の様な役割を果たしています。このような植生と凍土の関係が乱されることによって生態系の乱れが予測されるわけです。

日本はロシアにとって最大の木材輸出国であり、永久凍土地帯で産出される石油や天然ガスをパイプラインで運んでもらおうとしている国でもあります。永久凍土の状態変化は全地球的にも大きな影響を及ぼす可能性があり、気候的にシベリア高気圧の影響を受ける日本にとっては凍土地帯・シベリアで起こりつつある変化は身近な問題となります。地球温暖化に加えて人為的な森林火災や伐採による地表面の撹乱によって永久凍土の状態がどのような規模でどの程度変化するのか?そしてその変化が地球の気候や人々の生活にどのような影響をもたらすのか?そのような変化に対してわれわれは何ができるのか?といった問題に対して未だ確固とした答えが出せていないのが現状です。

(2005年11月)